NO2 まだまだ続くよー

前回の質問からいきます。ペテルブルクや、モスクワでは生徒が孤児院の子供だったりしたか。。バレエはあまり尊重された職業ではなかったとありました。これに変化があらわれてくるのがロシア革命後だと思われます。それまでは、ロシアとドイツの戦争は瞬く間にヨーロッパの国々を巻き込み、第一次世界大戦の幕開けとなるわけですが、一方でこの戦争はロマノフ朝の終幕を招くことになります。戦争による窮乏に業を煮やした首都ペトログラードの労働者たちが、1917年3月、大規模な暴動を起こしました。これをきっかけにロマノフ朝は倒れ、ロシアは史上初の社会主義国となっていくのです(ロシア革命)。その立役者は、レーニンという男。
1924年レーニンが死去すると、その5日後には、ペトログラードは彼の名をとって「レニングラードLeningrad」と改称されました。すでに、1918年に首都はペトログラードからモスクワに移されていましたが、これ以後、レニングラードは、世界的に有名なバレエやオーケストラの本拠地として、ソ連における文化の中心的な位置を占めるようになってきたようです。これによって、国家がバレエというものに大きな位置づけをしたようだ。今でも、レニングラード国立バレエ団が存在する。
つまり、今まで生徒たちは劇場関係の弟子か、身分の高い家柄から生まれた庶民に限られてしまったのだ・・が、革命後はフランスを見本として、職業としてなりたっていったそうです。有名なアンナ・パブロワの親は貧しいといわれてきたが、実の父は裕福な銀行家だそう。これはまれな例であるが。。
話をパリ・オペラ座に戻すと、18世紀の終わりには学校は1年生、2年生、3年生といった区別はなく、全員が一緒のクラスであり、1805年のなってようやく上級クラスが設置されて、専任の教師がおかれた。これは、効果があったとみえ、1817年にはさらに上級のクラスが設置された。この時代のクラスは2時間または2時間半で週3回だった。それゆえ学校の無い日には生徒たちは自費で有名教師のクラスにでた。完成組みも同様で週に4回は自発的に稽古(日曜もやすまなかったらしい)していたそうです。
つまり、この時代に公立のバレエ学校に行っても、勝手にスタジオで勉強してもあまり将来性に変わりはなかったらしい。バレリーナ伝記を見ても、マリータリオーニは一度も学校には行っておらず、パリではクローンの個人授業をとっていたらしい。ではどんな授業がおこなわれていたのだろうか。すごいよ・・・・