先日、とあるバレエ団の公演を観にいってきました。以前からここのバレエ団のファンであった私と先生、そしてお稽古場のみんなで観にいきました。が、以前よりも魅力がなく、とても残念でした。その理由はただ一つ。芸術監督がかわってしまったことにあると思いました。いかにその存在が大きいものだったのか、私が感じたのだから、踊っているダンサーたちも、なにかしら感じているに違いないと思います。やはり、このバレエ団はあの芸術監督から離れてはいけない、と思いました。同じようにダンサーも、様々な意見があるにしろ、その人にとって今足りない何かを言ってくれる人、憎まれ役というのはやはりどこにいても必要なのかもしれないと思いました。指導者もこれと同じだと思い、改めて指導者の責任を感じました。

第1章ではバレエ教育の始まりについてふれていきたいと思う。バレエが日本に伝わるまで、いったい海外ではどんな動きがあったのだろう。そして、バレエ教育の始まりと同時に、バレエ学校も始まりをむかえる。社会で生活できるように、私たちに義務教育があるのと同じように、学校としての舞踊の成り立ちもみることができる。さて、1490年頃ミラノ大公の宴会での出し物(宴会の余興としてのダンスから始まり、1533年頃イタリア、フォレンツェのメディチ家カトリーヌとアンリ2世の結婚によって、宮廷バレエはフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスのもとで発展する。その後1661年、ルイ14世が「王立舞踊アカデミー」を創設する。彼も、実はダンサーであったが、実力のほうはいまいちであったと言われる・・・それらが発展し、宮廷のバレエから劇場バレエへと変化していく。
1671年にオペラ座が開場するが、まだこの時代はバレエとオペラがまだ混在した状態であった。やがて、バレエが独自の芸術として発展し、前にも述べたように、1713年1月オペラ座の生徒たちのため、国立舞踊学校が開設される。これが現代にまで続いているパリ・オペラ座バレエ学校である。このころから、バレエを一つの芸術としてみる動きが始まった。
この後、ロマンティック・バレエが開花しポアントの技術が生まれたのは19 世紀頃1810年ごろだと言われている。はじめてポアントをはいて踊ったのは、マリー・タリオーニ「ラ・シルフィード」である。続いて、「ジゼル」、「コッペリア」などと続く。しかし、これ以降、バレエの中心は一度ロシアに移ることとなる。
フランスの宮廷バレエはロシアへ伝わり、「白鳥の湖」クラシックチュチュの登場。「眠れる森の美女」(マリウス・プティバ演出)「シンデレラ」が続き、アンナ・パブロアらが活躍!!
その後アメリカでも、1934年頃からバレエ学校ができはじめ、1930年、バレエシアターの結成。のちのアメリカン・バレエ・シアター(ABT)。その後、ニューヨーク・シティ・バレエの設立となる。
イギリスでもこの後、バレエが普及していく。マーゴット・フォンテインの登場で、英国バレエは形成されていく。1956年にロイヤルバレエの成立。

このようにして、以前にも紹介したような「バレエ教育」、「バレエ学校」が成り立っていく。    


参考・ダンスマガジン「バレエ学校ってなに?」