2章・バレエ学校について。
海外には、国立で成り立っているバレエ学校がある。私は、バレエ学校をつくるということに賛成である。なぜか?と言われると、バレエ(舞踊)という芸術の質をもっと高めていき、これからの子供たちに安心して正しいバレエというものをを身につけさせ、世界に羽ばたいていってほしいからである。そのためには、ただ踊りだけやっていくのではなく、勉強もしっかりやり、いいものをたくさん観て、多く触れ、感じ、豊かな人間性と、創造力をやしなっていって欲しいのである。バレエとは、もともと海外の人たちが始めたものであって、その動き方や、表現の仕方は、それらの人々に合うようにつくられてきた。しかし、今では、日本の多くのダンサーたちが、海外から高い評価を得ている。これはすばらしい事であり、これからの日本のバレエももっと進化し、より良いものになっていくと私は思う。そのためには、小学校と同じような扱いで、小さい頃から通うバレエ学校をつくるべきだと私は思う。今、新国立バレエ団といって、国が応援しているバレエ団はあるが、ここの研修生といわれる人たちも、高校を卒業してから、海外に留学してから、十代後半で入る人がほとんどである。
海外のバレエ学校をみてみると、ほとんどが8歳から、9歳で入学する。入学試験があるのは当然の事、その後には定期試験があり、それによって進級か留年か、あるいは退学かが決められる。国によって様々なスタイルはあるが、学校自体のカリキュラムやシステムには、さほど大差はないとおもわれる。しかし、子供たちが学校を卒業したからといって、必ずしもそこのバレエ団に入れるわけではなく、むしろ入れる子のほうが少ないのである。門戸はとても狭いのである。又、フランスのパリ・オペラ座バレエ団は、他のバレエ団とは少し違い、そこのバレエ学校出身の子しか、ほとんどいれないそうだ。ただ、毎年、入れる人数は決まっていて、本当に優れた数少ない卒業生しかはいれないそうだ。この環境からみても、プライドが高く、天真爛漫で、美を追求した堂々たるカタチをみせてくれるのがパリ・オペラ座である。これに対して、あくまでも完成されたものを目指す、真面目ともみえるまっすぐな姿勢、ワガノワスタイルとは、日本でも多く取り入れられ、ビデオも数多くでている。バレエのために生まれてきた体を持つヨーロッパの人々と、体操的な身体能力を持つロシア派、どちらも目がはなせない。そして、もう一つ紹介してみると、イギリスのロイヤルバレエスクールである。ここは、また違ったロイヤルスタイルというものを持っている。日本を代表する、熊川哲也もここで学び、ロイヤルバレエ団で活躍した一人である。英国といった雰囲気の中にも、抑えた動きが入り、ドラマ性を醸し出す表現になっている。100年に一人といわれているシルヴィ・ギエムも、パリオペラ座バレエ学校で学び、後に表現力と自分を磨くために、ロイヤルバレエ団に移籍した。
このようにみてみると、世界には様々なバレエ学校、それに付随するようにしてバレエ団というもがあり、ダンサーというのが職業として成り立っていて、バレエ学校も、日本でいう義務教育の学校と同じくらいの感覚で人々たちの間に浸透している。

先日、とあるバレエ団の公演を観にいってきました。以前からここのバレエ団のファンであった私と先生、そしてお稽古場のみんなで観にいきました。が、以前よりも魅力がなく、とても残念でした。その理由はただ一つ。芸術監督がかわってしまったことにあると思いました。いかにその存在が大きいものだったのか、私が感じたのだから、踊っているダンサーたちも、なにかしら感じているに違いないと思います。やはり、このバレエ団はあの芸術監督から離れてはいけない、と思いました。同じようにダンサーも、様々な意見があるにしろ、その人にとって今足りない何かを言ってくれる人、憎まれ役というのはやはりどこにいても必要なのかもしれないと思いました。指導者もこれと同じだと思い、改めて指導者の責任を感じました。

第1章ではバレエ教育の始まりについてふれていきたいと思う。バレエが日本に伝わるまで、いったい海外ではどんな動きがあったのだろう。そして、バレエ教育の始まりと同時に、バレエ学校も始まりをむかえる。社会で生活できるように、私たちに義務教育があるのと同じように、学校としての舞踊の成り立ちもみることができる。さて、1490年頃ミラノ大公の宴会での出し物(宴会の余興としてのダンスから始まり、1533年頃イタリア、フォレンツェのメディチ家カトリーヌとアンリ2世の結婚によって、宮廷バレエはフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスのもとで発展する。その後1661年、ルイ14世が「王立舞踊アカデミー」を創設する。彼も、実はダンサーであったが、実力のほうはいまいちであったと言われる・・・それらが発展し、宮廷のバレエから劇場バレエへと変化していく。
1671年にオペラ座が開場するが、まだこの時代はバレエとオペラがまだ混在した状態であった。やがて、バレエが独自の芸術として発展し、前にも述べたように、1713年1月オペラ座の生徒たちのため、国立舞踊学校が開設される。これが現代にまで続いているパリ・オペラ座バレエ学校である。このころから、バレエを一つの芸術としてみる動きが始まった。
この後、ロマンティック・バレエが開花しポアントの技術が生まれたのは19 世紀頃1810年ごろだと言われている。はじめてポアントをはいて踊ったのは、マリー・タリオーニ「ラ・シルフィード」である。続いて、「ジゼル」、「コッペリア」などと続く。しかし、これ以降、バレエの中心は一度ロシアに移ることとなる。
フランスの宮廷バレエはロシアへ伝わり、「白鳥の湖」クラシックチュチュの登場。「眠れる森の美女」(マリウス・プティバ演出)「シンデレラ」が続き、アンナ・パブロアらが活躍!!
その後アメリカでも、1934年頃からバレエ学校ができはじめ、1930年、バレエシアターの結成。のちのアメリカン・バレエ・シアター(ABT)。その後、ニューヨーク・シティ・バレエの設立となる。
イギリスでもこの後、バレエが普及していく。マーゴット・フォンテインの登場で、英国バレエは形成されていく。1956年にロイヤルバレエの成立。

このようにして、以前にも紹介したような「バレエ教育」、「バレエ学校」が成り立っていく。    


参考・ダンスマガジン「バレエ学校ってなに?」

箇条書き

目次
第1章 バレエ教育の諸形態
    〜始まりとその歴史〜
第2章 バレエ学校の仕組みと取り組み
    〜教育、訓練機関としてのバレエ学校〜
    〜海外のバレエ教育と学校の構造〜
第3章 日本でのバレエ教育について
    〜日本でのバレエ教育とは〜
    〜これからの日本のバレエ教育について〜
第4章 ダンサーが常に追求していくものとは。
第5章 バレリーナの成長。プロダンサーと教育者。
第6章 全体を通して
    〜これからのバレエのありかた〜

4章で、今私が考えること。
・自己への厳しさからなる美しさへの追求。
・日々追求し変化し続けること。
・作品への自分なりの理解と創造力。
・音楽と踊りは一つ。
・こころ(ハート)で踊るという事、それにプラスαしてテクニックがついてくるということ。外側でなく、内側からでるもの。(シルビィギエム。ジョルジュドン)
・普段からの生活態度、自分の性格は必ず踊りにでるということの認識。
・踊りに情熱を持ち続けること。
5章
ダンサーと教育者はまったく違う。
・日々のレッスンで何かを習得する。
・教育者のありかた。
・教育者の責任。
・様々なバレエ団の教育方針を参考。
6章
・芸術をもっと普及し、庶民化する。
・演劇、ダンスなど、人々の日常娯楽にしてしまう。
・これらの価値も上げるため、プロのダンサー(芸術家)の育成にもっと専念する。また、そのような環境をつくる。
・今の時代にあった子供たちへの教育。
・芸術家の給料について。
・国でもっと芸術全般を盛り上げる事ができるのではないか。
・これからの日本のバレエ界
  日本は今、様々な国のバレエスタイルを取り組んできてるが、これからは日本人の身体にあった、日本人ならではの美しいバレエスタイルをつくっていけたらいいと思う。日本人にしかないいい所をたくさんみつけ、生み出していけたらいい。
    

目次
第1章  バレエの誕生
      ・バレエの起源
      ・日本でのバレエの始まり
第2章  バレエ学校の仕組みと取り組み
      ・海外のバレエ学校について
第3章  日本のバレエ教育について
      ・日本でのバレエ教育はどういったものか
      ・これからの日本のバレエ教育について  
第4章  ダンサーが常に追求していくもの
第5章  プロのダンサー、教育者になるためには
第6章  全体を通して
      ・これからのバレエのありかた・・・
まだ決定ではなく、書きたいものを出してみました。
バレエについての新しい記事
 バレエは、文芸復興期(14〜16世紀頃)にイタリアで誕生した。イタリアで誕生した背景としては、イタリアの王侯の宮廷が、当時の芸術の完成に特別の役割を果たしていたからである。イタリアの宮廷では振付(バレエの元)が発生し、文芸を庇護する王侯は、音楽、詩、建築、絵画、彫刻を統合した華麗な余興を準備してくれる芸術家を身辺に集めておくことを好み、それらが総合されて今のバレエに至った。
 日本でのバレエの始まりは、1912年にイタリア人舞踊家ジョバンニ・ビットリオローシが、帝国劇場の歌劇部の研究生にバレエを教える為に迎えられた時からとされている。しかし当時はバレエという言葉が一般化されず、しかもオペラ運動の中に含まれ、独立した舞台芸術舞踊として大衆の注意を引くまでには至らなかった。舞踊を志す人もおおかたは創作舞踊やモダン・ダンスに転向して、バレエの独立した舞台は皆無な状態であった。翌1922年の秋、不世出の名バレリーナとうたわれたアンナ・パヴロヴァ一行が来日し、帝劇をはじめ各地で公演した。彼女の踊った「瀕死の白鳥」は観客を陶酔させ、大衆の間にその名は広がり、その芸に魅せられた若人の間にバレエを習う風潮が高まった。しかし1935年前後の日本の舞踊界はバレエとモダン・ダンスの区別すら明白ではなく、大勢はモダン・ダンスにあつまった。バレエが本格的な開花期を迎えたのは、第二次世界大戦後で1946年に各バレエ団の合同による東京バレエ団が8月帝国劇場において、17日間の長期公演を行い、これが予想外の成功を収め、戦後の日本のバレエは急速に発展を遂げた。イギリス・フランス・ロシアとバレエの本場の地で活躍する人材も育ち、今日では世界のおもだったバレエコンクールにも参加し、世界の名門バレエ学校に留学する時代を迎えた。しかしバレエ界の繁栄は、多くの先人達の努力と、個々のバレエ団、バレエ研究所の情熱によって支えられてきたというのが現状である。

ワガノワ

「ワガノワのバレエレッスン」より。
19世紀後半に、ロシアはバレエの先進国となり、振り付けの巨匠M・プティパを中心に、バレエ王国が築き上げられてきた。この間につぎつぎと考案、改良された技術に蓄積。教師から生徒へ、口承のようにして受け継がれてきたそれらの技術の一つ一つを、正確にに最も的確な方法で習得することを、ワガノワは理論的に探求した。そして、さらに、バレエの古い伝統を持つイタリアとフランスのスタイルを分析し、優れた部分だけを取り入れて変形させた、ロシア派独特のフォームも新たに作り上げたのである。
ワガノワメソッドの大きな特徴;全身を十二分に使って躍らせる。かつては他のメソッドではあまり考慮されていなかった腕や上体の機能について、ワガノワは念入りに分析し、それらをどのように脚の動きに参加させれば跳躍や回転がスムーズに大きなスケールでおこなえるかを考え出したのである。上体を十分に使い、動きを柔らかく優美にみせること、上体は強靭に鍛え上げられているにもかかわらず、まったく力みがない柔軟さ、繊細な腕の動きや頭の向きによる優美な身のこなしは、ロシア派女性舞踊手の特徴だという。パを脚の動きだけでなく、必ず上体、腕、頭の動きと結びつける教育は、ロシアでは幼い頃から教育される。
基本的なアンディオールやポジションの使い方はどこの国でも同じだが、スタイルが大きく違ってくる。同じポーズでも使っている筋肉などは一緒だが、体の傾け具合や、顔のつける程度が大きく変わってくるのだ。基本的にロシア人は内脚が多いと言われている。そのような人のためにつくられた動き方なのかもしれない。日本でもロシア系の動き方はいたるところで使われている。
みな他の国のメソッドは否定するが、オペラ座にいるような骨格の人と、日本人が同じレッスンをしろといわれても無理である。体の使い方に必ず間違いが出てくると思う。生まれつきに持ったそれぞれの骨格を通して、その時代の子供たちに合わせた教育を教師たちは考えなければならないと思った。

授業は、午前に普通教育がおこなわれ、午後が舞踊に関するものである。第6課程を例にみてみると、舞踊はクラシックだけでなく、マイム、民族舞踊、音楽、などがある。時間数でいったら、クラシックが週に10時間半おこなわれ、後は週に1時間半となる。
ベッシー校長によって改革されたカリキュラムの特徴は、クラシックの技術的な訓練に偏らない幅広い舞踊教育をおこなっていること。低学年にはマイムと民族舞踊のレッスンがあり、高学年にはキャラクターとアダージオ(パ・ド・ドゥ)、それにモダンダンス、ジャズダンスのレッスンがある。ダンスのレッスン以外にも、音楽、解剖学、舞踊史、身体管理法などの授業が用意されている。単なる踊り手ではない真のアーティスト、新しい時代に通用する舞踊芸術家を育てようというはっきりとした意図がカリキュラムに現れている。
生徒たちは、毎年、学年の終わりに進級試験を受け、それによって進級か留年かあるいは退学かが決められる。また、最終学年の生徒はオペラ座バレエの入団試験を受けるが、入団できるのは毎年、男女数名ずつに過ぎない。
さて、オペラ座バレエ学校では、毎年公開デモンストレーションをおこなっているのに加えて、1977年以降は本格的な学校公演を実施し、生徒に観客の前で踊る貴重な機会を与えている。これらは、本来ならば生徒たちの公演のはずなのだが、プロの公演と比較しても遜色はなく、多くのバレエファンをあつめているそうだ。
日本でいう新国立ですね・・ただ日本の新国立は、オペラ座バレエ学校のように、早くから入学しないので、私の考えとしたら、小学生になったくらいから、このような教育を受けられる環境に入れたほうがよりよいアーティストを育てることができるのではないかと思います。

パリオペ。。。

バレエというものには、茶道や華道のように様々な流派がある。ワガノワ、チェケッティ、ブルノンビル、レガット、パリ・オペラ座バレエスクールなどなど等たくさんあるが、これらの違いというのは使うバレエ用語の違いや、動きの(ムーヴメント)ニュアンスが微妙に異なったりしていることである。ロイヤル・バレエでは、チェケッティ派によるもの。
チェケッティ派は、エンリコ・チェケッティ(1850〜1922) によってつくられたもので、力強い回転や跳躍を特徴とした踊りで知られ、イタリア・バレエの伝統を受け継いでいるものである。彼の教えを受けた生徒には、ド・ヴァロワを含め、アンナ・パヴロワニジンスキーなどがいる。現在ロイヤル・バレエの他に、アメリカのチェケッティ評議会や、イギリスのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシングなどに受け継がれている。
これらのニュアンスなど説明するときりがないので、学校の体制をみてみます。。
まず、私の好きなパリ・オペラ座バレエ学校の教育は第6課程から、第1課程まで基本的に6体制。生徒はおよそ100名。20人くらいの講師がいる。
入学試験があるのは、女子8〜12歳、男子8〜13歳の原則としてフランス国籍の児童である。入学するためには、まず、健康診断と厳しい身体適正検査をパスしなければならない。身体適正検査には、遺伝子的な要因をチェックするための両親の体格審査なども含まれている。さらに一定の研修期間(8〜10歳半は5ヶ月、10歳半〜12歳は1年間)を経て、最終的な入学試験に合格したものが正式な入学を認められます。毎年、競争率は20倍を越えるらしいです。
しかし残念ながら、この中に外国人の留学生は、ほんのわずからしいです。授業はというと・・・